カテゴリ:考え事( 43 )

情報の出し方

いつのまにか情報社会と言われる世となり、自分も情報社会に身を置くようになった。どこまで何を出すのか、何を欲しいか、が難しい。
私は(自分が興味があることについては)情報が欲しい方なのだが、やりだすとキリがない。また途中の情報が最終的にどこまで役に立ったかというと疑問なことも多々ある。では何のためにその情報を手に入れるのかというと、自分が納得して動くために、情報を得ているのだと思う。
これは恐らく、他の人たちも同じだ。どこまでの情報があれば、自分が、人が、納得できるのか。そんなこと知っても状況変わらないしね!と言いたくなることも多々あり(というかよく言ってる)のだが、ポイントは「その人が納得するのはどこか」なのだと思う。逆に言うと、納得する情報を渡してこそ、人は動いてくれる。納得しないままというのは、ストレスフルな状態だ。ストレスを無くすには、情報を渡すか、さもなくば納得できる「必要ない」理由を伝えるか、どちらかだろう。

自分の時は、どれが本当に必要なのかを考えて、自分が納得するラインを引き、他の人に対しては、その人がいい具合に動けるように、情報を適切に出していきたいと思う。
いやーしかし、「適切に」「分かりやすく」って言うは易しなんだよなあほんとに!言ったつもりでも、伝わらない、分かってもらえない。それって情報としてかなりいけてない。そして自分が伝える側だった場合に「言わない」ことは、思ったより相手にとってストレスだったりする。

最近、さとなお氏の書いたものをちょくちょく読む。アウトプットをした分だけ、インプットが来る。私もそちらに賭けている。

少し情報というものが面白いと思うようになった。
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by hiranori | 2012-03-23 19:05 | 考え事

一言

自分のなにげない一言が、人を追い詰めたり傷つけたり、負担になったりしないようでありたいと思う。そして願わくば、ほんの少しでいいので、助けや支えになれればと思う。
押しつけがましくなく独りよがりでなく、少しだけほっとするような、そんな一言を。さりげなく伝えられるようでありたい。
私に出来ることは、そう思えてそうできるだけの余裕を持つことだと思う。
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by hiranori | 2010-07-08 10:43 | 考え事

「好き」

好きなことは、ただ「好き」でありたい。
できるだけ「好き」なことについて発言したい。

改めて思う、「好き」について。

1 点目。
ナガオカケンメイの本を読んでいる中に、いいものをいいというのに「悪いもの」を作る必要があるのか、というようなことが書いてあった。好きだということについて話していると、途中で、対して嫌いなものが出てきて、時に好きなことと嫌いなことを 1 セットで語ってしまう。でも好きなことはそもそも絶対的な訳で、嫌いなものがあるから好きな訳じゃない。ただ、好きなのである。しかも自分が嫌いなものが、他の人は好きかも知れない。
自分の好きなことを話す時に、他を否定せずに好きだということを伝えられるようでありたい、と思う。負けず嫌いな性格が災いして、「でもさー」とか言われると、ついつい対抗しちゃうんだけど(笑)。

2点目。
言霊もしくはそれみたいなものがあると私は思っているので、肯定にはプラスのオーラが、否定には負のオーラがついていると思う。好きなことを話す時の顔ってキラキラわくわくしているのに、嫌いなことや嫌なことを話す時の顔って、良くない。暗かったり、意地悪だったり。でもその否定は、本当に必要なの?時々そう思う。
否定することも、時には必要だ。私もよく、NO は言う。ただ、否定しなければならない時以外は、否定しなくていいと思う。好きなことを発言して目的がちゃんと達成できるなら、いいんじゃないのだろうか。伝えたいところが伝われば、いいんじゃないだろうか。そういう風にできている人を見ると、ああこの人はすごいな、と、頭が下がる。必要なところはどこかを考えて、できるだけポジティブに発言していたいと思う。

負けず嫌いな性格、気をつけないとなー。
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by hiranori | 2010-04-09 14:58 | 考え事

10年

目の前に起こる事は、必然だ。必要だ。そう思う事がある。
今この状態でいることは過去の積み上げで、選び取って来た過去があるからだ。選び取るには、それを選び取る状況・心境に自分がなっていたためで、そういう状況・心境になっていなければ選んでいなかっただろうし、目に入らなかったかもしれないと思う。
電車待ちの間に立ち寄った本屋で、「ナガオカケンメイの考え」が文庫本になっているのを見つけた。ナガオカケンメイ、は、D&Departmentの代表者でデザイナー。「カワウソに似た顔」をしている。
ハードカバーで発売された当初は、blog に彼が書いていた内容だし、わざわざ買うのもな、と買わずにいた。でもなんとなく今回は目について、パラパラめくっている間に読みたくなった。買った。
内容は、仕事とは、働くとは、会社とは。そういう話が多い。デザイン論は、総じて少ない。やるべき事を、きっちりやること。ちゃんと実行すること。熱意をもってやること。自分の仕事に、プロであること。彼の文を見ていると、ああ、今の自分に足りてないな、と思った。
手抜きしないで働かなくちゃ。ここ数年で、手の抜き方を覚えてしまったことを感じていた。だからこの本が、目にとまったのではないかと思う。手抜きして、面白い訳がない。反省すると同時に思う。私は働くことが好きなんだな。好きなら、納得いくようにやらなきゃ。
友人から朝、メールが来た。今年で我々、社会人10年目らしい。過去の選択の上で、今選ぶことは、未来に起こる事の元となる。この10年を総括しつつ、次の10年へ。
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by hiranori | 2010-04-01 20:25 | 考え事

組織で動く

土日に moguring の企画 「ドリーム企画!素潜りBBQヨットダイビング」に参加してきた。物凄く楽しかった。
今回の企画は、立てたと同時に参加希望者が続けざまに現れ、総勢 21 名参加という、moguring としてはかなり大きな企画になった。人数が多い場合、これまでは漠然と「たくさんの人が動くから大変」だと思っていたのだが、今回感じたのは、人数が多いと意見のとりまとめや情報の伝達がより難しくなり、特に後者の情報の伝達については、人数が少ない時と多い時とでその重要性が変わるのではないか、ということだった。
人数が多い場合、全ての人の意見を反映させることは、残念ながら難しい。また人数が多くなると、リーダー、もしくはリードするグループが必要にはなる。そういう状況で、周囲の様子や意見を見ながら、リーダー(or リーダーS)が考え、決めることはもちろん重要だが、皆にきちんと伝える、連絡をちゃんと行き渡らせる、ということが、とても重要だと思った。
今回の企画は、BBQ&ヨット潜り、であったものの、私は BBQ とその他お手伝いという参加方式で、ヨットと潜りはパスした。よって他の人より手が空いているはずなので、雑務のうち、私にできるところを極力やろう、という腹積もりがあった。情報整理とか調整を促すとか、事務方の仕事とか、まあ気分としては、部活のマネージャーみたいな感じ。
その中で、これってどうなっているんだっけ?どうするんだっけ?ということを、自分で思ったり、人に聞かれたりすることがあった。なんとなく分かっている人同士で話してしまうと、みんな分かっているものだと錯覚してしまったり、抜けが出てしまうことがある。また周囲に説明しているつもりでも、伝えた=伝わった、ではないので、きちんと伝わっていない場合がある。多少大仰でも、ゆっくりしっかり、状況やスケジュール、方向性を伝えること。少人数では、ナァナァで済ませられるが、大人数であれば、そういうところが重要になるんだなと思った。基本にかえれ、ってことか。
ちなみに情報を伝えるということは、その前に状況を把握するとか方向を決めるとか調整するとか、そういう前ステップが多数あり、そのあたりが出来ていないと情報を伝えられもしないので、情報を伝える、ということは、実はとても壮大な話である。
そういうことを考えると、会社で考えることと似ているなあ、と思った。伝えるというのは、伝わって初めて伝えたというのだ、という話。会社みたいだ、と思うと、仕事みたいだ、と思い、何となく変な気分になってしまうことがあるが、今回の件については仕事というよりも、組織とは、ということを考えた。組織っていうのは、こういう事が重要なんだな、と。
会社と違うのは、ステイクホルダーは存在するが、そんなにがちがちじゃなくていい、というところ。やれる人がやればいい。気付いた人が動けばいい。それを、願わくば周りが分かっていて、皆で楽しく回せればいい。ま、会社もそうでもいいと思うのだが、規模が規模だし、利益を生まないといけないからな。
そういう訳で、今回は潜りサークルの活動に潜り無しに参加した私だったが、得るものがあって面白かった。あと純粋に、皆で遊ぶのが楽しかった。色んな人が気持ちよく動いてくれているのを見るのが嬉しかった。お天気に違わず、とても楽しい、充実した 2 日間だった。
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by hiranori | 2009-07-27 18:07 | 考え事

理性と感性の狭間で

人の考えについて、あれ、それなんか違う気がする、と思う時がある。
その後、でもこう考えたらこうだし、とか、それはその人の考えであり意思な訳だし、とか考えた結果、「それ」はそれでいいか、と、落ち着く事が多い。
しかし果たしてそれは、正しいのだろうか。考え直すことは、誤魔化しではないだろうか。かといって直感に従うことは、学習能力がなさすぎやしないだろうか。
たまにそんな事を、ぐるぐると考える。まーでも大体、考えるのが面倒くさくなって、その時、こっちだ、と思う方に踏み切ってしまうのだが。そもそも、相手は私ほど拘っていない場合も少なくなかったりするし。
そして結果は、感情で動かなくて良かった、と思う時と、やっぱりあの勘があたっていたんだ、と思うことが、同じ位の確率でやってくる。五分五分ってことは、悩んでも悩まなくても大した差はないのかなあ。悩んだから五分五分なのかなあ。
どちらにせよ、決めたことに潔くありたいものだ。
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by hiranori | 2009-06-22 22:07 | 考え事

頑張る

頑張れば出来る。頑張らなければできない。だったら頑張る。
本当に選んでいるのは頑張ることではなく、それが「出来ている」ことだ。頑張る、は、その道のりを、気持ちバージョンで表現したに過ぎない。
でも頑張る。だから頑張る。
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by hiranori | 2009-03-31 22:09 | 考え事

「学力低下」は何のせいなのか

陰山メソッドで有名な陰山氏が、現代の学力低下について、「そもそも(ゆとり教育の前提となった)詰め込み教育というものは存在していなかった」と書いていた。でも私は、あったと思う。
確かに小学校低学年、中学年あたりでは、そんな風に感じた覚えは無い。だが少なくとも中学・高校の頃、私は、点を取る為に勉強していた覚えがある。点が取れれば、誰にも文句を言われることは無かった。点数はあくまで中間の経緯に対する評価を客観的に行うもので、中身が伴っていれば自然とついてくるもののはずだった。それが「点を取る為の」効率よい勉強の方法、というものが主流になり、結果という名の点数のみが重要視された。結果から逆算した勉強方法。合理的で結果は出せるが、「勉強」という意味では本末転倒だ。これがいわゆる詰め込み教育なのではないのだろうか。もしかすると、テストで点が取れていることが中身を理解していることにならないなんて、思わなかった、ということだろうか。
しかし効率化することだって、悪いことではない。効率的に、いかに「勉強するか」。それであれば、むしろ良い筈だ。問題は、その焦点が違ってしまったことだ。焦点を誤ってしまったのは、一体どうしてなんだろう。
なんだか武士のようなことを言うが、日本は合理化の方法を誤ったのではないかと思う。合理化というのは、中身が伴ってこそ、合理化することができる。中身の無い合理化は、物事の表を撫でて通り過ぎるだけだ。例えば会社でも、経験者、概して年長者になる場合が多いが、はこれまでの基礎があるので、合理化するということができるように思う。好むかどうか、実際にやるかどうかということは置いておいて。しかし、若者は、というと語弊があるが、経験も知識も何も無いのにいきなり合理化≒簡略化するのが当然だ、という中で動かなければならないケースがあるように思う。基礎が無いのにいきなり応用から始めてしまったような、つまりは中身が薄っぺらですっからかんのような、そんな感じを受ける。これは自分についても思うことで、結局基礎がなってないんだな、と思うことがある。勿論、小さなことから丁寧に教えてもらえて、徐々に成長する、という環境に、幸運にも置いてもらえている、のではあるが。
私は昔から、とにかく数字、算数、数学が苦手(というか、嫌い)で、それについては点さえ取れれば免除されることで助かっていた(学校のテスト位はやり過ごせた)。でも結局点が取れていたのは、国語だったり英語だったりする訳だ。国語はむしろ、テストの為の勉強、が思いつかなくて困ったし、英語は、いかにマニュアルどおりでない解答を作るか、に心を砕いていた(天邪鬼だから)。どちらにも共通しているのは、好きだったし面白かったことだ。基本的なことだが、これが勉強だったのだろうと思う。
学力低下の原因が教育側の問題なのかどうか、というところは、考える余地があると思うので置いておいたとして、教育の分野がリードすべきところは、何だろう。私の場合、興味を持つというスタート時点については、教育どうこうというより、単に私の興味にひっかかったから、ということだったように思う。ただここから伸びるかどうかという点においては、相対する先生方の能力は大きくものをいうと思う。情報提供や、質問した時の対応によって、その伸び具合や興味の深さは変わってくると思う。教育を受ける者、特に子供は、本物・偽者に敏感だ。本物による対峙が必要で、教育者というのはかなりタフなことを求められていると思う。そして勿論、「興味に引っかかるかどうか」のスタート地点を、作り出すこともできると思う。
陰山氏は、基礎計算や読み書きの反復と共に基礎生活力の回復を提唱している。これについては私も同意で(私が偉そうに言うことではないが)、ごく当たり前の、基礎的な人間力みたいなものはあって然るべきだと思う。例えば彼の言う、早寝早起きとか朝ご飯をちゃんと食べるとか、バレーの植田監督の実践した、挨拶をきちんとする、とか、そういうことだ。ただこれも、じゃあ本当に出来ていないのか、例えば「現代の子供は」なのかというと、単純に肯定もできない。集団になった場合に、良いにせよ悪いにせよ偏る傾向があるということは言えると思う。よって、例えば学校であったり地域であったり家族であったり、集団としてまとめられる場合は、そこでの軌道修正は必要であり、効果的だと思う。
また陰山氏は、「昔は子供同士でおやつを分け合うなど身近なところに数字があったのだが、そういう光景が無くなった」ということも言っていた。日本は合理化・効率化を進めると共に、個人化・孤立化が進んでしまったと思う。いわゆる核家族の更に進化版、というか。こんなこと、思いっきり個人主義の私が言うことじゃないのだろう。ただ、自分でも、それが自分に及ぼしているデメリットを理解してはいる。そして、この解決方法が「個人を解消すること」かというとそれも違う気がしていて、個人だということを分かった上で行動できるようにしなければならない、と思う。
さてと。勉強についてちょっと考えたところで、私もさぼらずに「効率良く」勉強しなくちゃ。こういうことを考える時に、大人になってよかったかも、と思ったりする。大丈夫、まだまだ勉強する機会はあるんだぜ、ガキンチョたちよ。しっかり体力つけて、大人になれよ。
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by hiranori | 2008-08-27 21:50 | 考え事

アスリートのコメント

北京オリンピックも終わり、続々とアスリートたちが帰国。テレビ番組でもまだしばらく、メダリスト、アスリートを見ることが続きそうだ。
最近のアスリートのコメントに、うーん、と思ってしまうものが多い。新聞のコラムでも載っていたが、周囲への感謝を真っ先に口にする人が多く、なんだかなあ、と思ってしまうのだ。これは私の勝手な押し付けかもしれないけれど、もっと自己中に、もっと自分のためにやって欲しい、と思ってしまうのだ。
それを力に変えられるならそれでも構わない。ありがたいと感じる気持ちを否定したい訳でもない。だがその人がメダルを取るかどうか、いい記録を出すかどうか、我々の期待に「応えてくれるか」、周囲の期待は、こちらの勝手な願いなのだ。そんなものに縛られないでくれ、と思う。そんなに背負い込まないでくれ。自分で精一杯な筈ではないのか。そんな風に頑張らなくていいんだ、と、言いたくなる。
目立てば目立つほど噂も絶えなくなるし、「そんなつもりじゃなかった」発言も、間違った方向に届いてしまう場合がある。それによって益々競技に集中できなくなることがあるかもしれないことを考えると、保守的にならざるを得ないのかもしれないが、なんだかとても残念だ。インタビューを見ていても、綺麗な解答マニュアルのページを見てしまったような、そんな気分になることが少なくない。その人の輪郭がぼやけてしまって、結局熱が伝わらない。勿体無い、と思う。
そんな中で、浜口京子選手の態度がとても好きだ。彼女の笑顔を見るといつも、なんだかほっとする。彼女も、期待に答えられるように頑張ります、というし、周囲への感謝の言葉も口にする。それでも言葉が薄くないのは、何故なんだろう。4 年前のアテネの時にも、この人できた人だなあ、と思ったが、今回の様子を見ていても、その印象は変わらなかった。中身と言葉が伴っているからなんだろうか。気持ちのいい人を見ると、私もそうなりたいものだと、前向きに気分が浮く感じがする。素敵な人だと思う。
最近好きなのが、福原愛選手だ。昔からメディアに慣らされているせいなのかどうか分からないが、感じよく育ったなあ、なんて思う。彼女は言葉は特別に上手くはないけれど、背伸びした言葉を使わないので、無理が無い。「そうですね」と答え始めることが少ないのも、私としては好きだったりする。オリンピックが終わって、また 4 年後かと思うと、ワープしちゃいたくなりますね、なんていって苦笑していた。そんな発言が受け入れられるのも実はすごいのかもしれないが、それが彼女のキャラクターが為せる業。最近ちょっとツボだ。
最初の話とちょっと矛盾するが、昨日テレビで見た卓球女子の選手たちは、みんな素直な話し方をする、いい子達だった。卓球の彼女達だけではなく、多分どの選手も、本当はいい人たちなんだろうな。そうであれば益々、型押ししたようなインタビューの解答が、勿体無いように思う。テレビの中の愛ちゃんを見ながら、そんなことを考えた。
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by hiranori | 2008-08-27 13:47 | 考え事

夢十夜

私には、絶対的に必要なものがある。自分の時間だ。今日は早めに帰れたので、家でご飯を作って食べたり、パソコンに向かってみたり、一人でぼーっとする時間があった。そういう時にふと、ああ、自分に還ってるな、そう思う。そしてその時間がなければ、きっと私はおかしくなってしまうだろう、と思う。
友達といる時間も好きだ。気の置けない友達と話している時、ボーッとしている時、歩いている時、ご飯を食べている時。そういう時でも、自分が自分である事を感じる時間は多々ある。
それでもどうしても、自分の時間が必要なのだ。自分一人で、自分の中を整理するような、咀嚼するような、バランスを取り直すような、そんな時間。自分の中にこもると同時に、自分が作られているような、そんな風に感じる事もある。
世の中の多くの事は、もしかしたら全ての事は、二面性を持つ。二面性が更に沢山集まり、多面体を作っているような、そんな気がする。私は Y/N で様々な事をはかるけれど、例えば Y を選んだ時に、その傍には必ず N があることを、忘れないようにしたいと思う。自分がバランスを取る為に捨てた N。それはつまり、それも自分のうちだということだ。そして捨てたとしても、ずっと私の下をついてまわる。それがあって、初めて Y は成立する。私は基本的に楽観主義で、お気楽にルーズに生きているけれど、同時に悲観的で現実的に冷酷に生きている。そういうことだ。
自分の時間には、そんな N の存在を思い出したり、Y と N を入れ替えて眺め直してみたりする。そしてまた、現実に戻る。現実に戻れるだけの力があって良かった、とも思う。
人それぞれに、自分のバランスの取り方があると思う。その時々でも、変わってくるだろう。私だってそうだ。それでも常に、この時間が、私には必要だ。
私が私である為の時間。私が私としてやっていくための時間。必要悪、という言葉があるが、これは私のとっての、必要な孤独なのだと思う。
時間のある夜には、こんな事を考える。
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by hiranori | 2008-07-22 23:26 | 考え事